ぺらぺらぺらお

2014年5月14日 (水)

カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師

カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師@新国立劇場


 前回は「12音技法を使ったオペラ・ヴォツェック」、前々回は「20世紀を代表するオペラ・死の都」ですた。で、今回は「ヴェリズモ・オペラの二大傑作・カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師略してカヴァ&道化師」、英語で言うところの "Cav and Pag"。この二演目って、だいたい抱き合わせ販売なのね。DVDもそう。


 ヴェリズモってのは英語で言うところのリアリズム、19世紀後半から20世紀初頭にかけてイタリアで興った文芸上のムーブメントのことだそうです。神話やおとぎ話じゃなくて、日常のリアルな生活を描写する、ってことでしょうか。
 そうすると、ヴェリズモ・オペラというのは、絵空事じゃなくて日常的な生活の中の「リアル」をテーマにしたオペラ、ってことになりますね。ってことは「ラ・ボエーム」なんかもヴェリズモなのかしらとも思うのだけど、そうでもない。


 ヴェリズモ・オペラって言うとなんか自動的にこの「カヴァ&道化師」の名前が挙がるようです。
 どうやら「日常」っぽいってだけじゃダメで、それプラス「貧乏くさくて悲惨」という要素が入らないといけないみたい。それがリアルなオペラってことらしい(「ラ・ボエーム」だって貧乏くさくて悲惨不思議とじゃん。アドルフォはその日暮らしでストーブには薪はないし、ミミは結核で死んじゃうし。でもお話しは全体を通して明るいんですよね)。


 じゃあどんなお話しがイタリアの「ヴェリズモ=リアル」なのか。
 

 まず「カヴァ」。
 お話しを要約すると、主人公が旦那のいる元カノと浮気をしてたら、主人公の今の彼女がブチ切れて元カノの旦那にチクっちゃって、ブチ切れた元カノの旦那によって主人公が刺されて殺されちゃいましたちゃんちゃん。
 

 抱き合わせの「道化師」。
 これまた要約すると、主人公がカミさんに浮気されてブチ切れて、カミさんと浮気相手を公衆の面前で刺して殺しちゃいましたちゃちゃん。


 ホントだってば。ホントにそうゆう話なんでびっくり。


 「貧乏+悲惨+浮気+ブチ切れ+殺人」。
 うーむ、これがイタリア人の「リアル」ってことなのか。
 そう言われるとそんな気もするな。


 どっちも殺伐としたストーリーなんですけど、歌の力でひっぱりますね。


 「カヴァ」、前半は少し眠かったけれど、後半ブチ切れた彼女のアリアは絶品でした。
 あとラストの、元カノとの浮気がばれて、やっべー、オレ殺されちゃうよママごめんね、というシーンが泣けた。主人公、情けないんだか潔いんだか。あ、それが「田舎の騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」ってことなのか。


 「道化師」、「芝居を演じている役者にもリアルな人生がある」ってのがテーマ。芝居なんて「テーマ」とか言い出すと急につまんなくなるのが常だけど、これもまた歌の力で救われてますね。
 幕が開く前に「口上」が述べられ、客席から主役級の役者が舞台に上がって行き、芝居の中の芝居で人が殺され、主人公は舞台を降りて客席から外へ出て行く。
 お、芝居の「枠」から飛び出すってことね。手塚治虫大先生のマンガのコマが壊れる、みたいな演出。
 最後に「喜劇は終わった」と「口上」。
 なんかアングラが流行る前の、おベンキョウができそうなスタッフが作った新劇をホウフツとさせて懐かしかった。
 でもこういう演出で言ったら、「フォルスタッフ」の、「みんなダマされた!」て観客を指さしながら、ちょっとっつ客電が明るくなってくって演出の方がインパクトでかかったかな。今まで安全地帯で笑ってた客が、実は笑われてたってオチ。


 初日ってことで、例によって各国外交官にみなさまがドレスアップでご来場してて華やかでした。その一方Tシャツジーパンのおっちゃんがいたり、最前列は相変わらず常連さんの井戸端会議みたくなってました。何かこういう感じ好きですね。例の紳士は今日も欠席だったけど。

2014年4月 8日 (火)

ヴォツェック

ヴォツェック@新国立劇場


 3月に見た「死の都」に続いてマイナーなオペラ。
 「死の都」には心に残る美しいアリア(「マリエッタの唄」)があった。だが「ヴォツェック」には、何も無かった。というか、ふつうに言うメロディラインというものすら無かった。いわゆる「無調」。

 

 舞台はこんな感じ。


 お話は「主人公の頭のおかしくなった貧乏な床屋あがりの兵隊が浮気をした妻を刺し殺した後、沼で溺れ死にする。残された息子は棒馬にまたがって、他のこどもたちと殺された母親の死体を見に行く。ホップホップホップと歌いながら」。


 なんだそりゃ。


 ホントにそういう話なんだもの、しょうがない。


 ふだんオペラに求めているものは、そこには何も無かった。


 じゃあつまらなかったか、というとそうでもない。
 もともと1時間半という短いオペラなのだが、それをさっぴいてもあっという間だった。
 舞台装置はすげえ大がかり。ホントのフロアには水が湛えられてある。
 その上に巨大な箱が吊されており、それが部屋になっている。
 部屋の中では、主人公が大尉殿の頭を剃ったり、これまた頭のおかしな医者の実験台になったりする。
 この箱=部屋が、場面によって歌手を乗せたまま、舞台奥上方に移動していく。
 ステージどんだけでかいんだよ。
 最初に箱=部屋が動き出した時は混乱したね。だって固定された舞台だと思ってたモノがいきなり動き出すんだもの。中の歌手はどんどん小さくなってくし。
 箱=部屋が舞台後ろに遠のくと、水を湛えたホントのフロアの上でお話は続く。
 水面に反射するステージライトが誠に幻想的で、その上でまたわけのわからない人々がわけのわからない歌を唄うわけだ。
 飽きる間はなかった。


 じゃあもう1回見たいか、というと、うーん。

2014年3月13日 (木)

死の都

死の都(←デフォルトで音が出ます)@新国立劇場


 タキシードの紳士がたくさんで華やか。初日恒例各国大使ご招待の日でした。
 でも最前には常連の近所のおばさま方がたくさん。
 「○○さんは今日はいらっしゃいませんねえ」「あらあたしこれ見たことありましたっけ、最近もの忘れが」。
 社交場と言うより井戸端。
 いつもの「オペラ座の怪紳士」は珍しく欠席。その代わり目があった常連のおばさまに「ねえ、そうじゃなくって?」って話を振られてしまいました。


 「死の都」。
 決してメジャーな演目ではありません。 
 本でつべで予習はしましたけど全く初見でした。
 20世紀を代表するという触れ込みのドイツ語オペラ。


 舞台はベルギーのブルージュ。奥さんを亡くした嘆きを抱え続ける主人公が、奥さんそっくりの踊り子と出会って云々かんぬん。
 亡き妻への忠誠と目の前にいる生きた踊り子への思いに引き裂かれそうになって云々かんぬん。
 踊り子との恋に落ちても、今度は踊り子と亡き妻との葛藤がはじまって云々かんぬん。
 「喪失」と「死と再生」と「回復」の感動的なドラマ云々かんぬん。


 なるほど美しい舞台であったし「マリエッタの歌」は心に沁みた。
 でもなあ、僕はもうちょっと大仰でアホアホでこてこてで浪花節なイタリアオペラが好きだなあ。

2014年2月 6日 (木)

カルメン&蝶々夫人

 リクアワがあったりユニット祭りがあったり九州ツアーがあったりナゴドがあったりしたのに無関係で過ごしてて、その代わり2週連続でぺらぺらぺらお@新国立劇場。
 先週は「カルメン」で今週は「蝶々夫人」。


 どちらも人口に膾炙した有名な演目だけど、どちらも初見でした。
 もちろんどちらの夜も「オペラ座の怪紳士」は最前列におられました。 
 そういや1月にはバレエでも会いましたっけ、「怪紳士」。


 それはさておき。


 「カルメン」はドイヒーな女の話。男をもてあそんだ女が男に刺し殺されちゃうの。
 「蝶々夫人」はドイヒーな男の話。男にもてあそばれた女が自分を刺して死ぬの。


 どっちもドイヒーな筋書きだが、歌も音楽も舞台も、涙が出るほど、あきれるほど美しい。
 皮肉なもんだねえ。


--


 昨日は乃木坂、今日はSKEリクアワのDVDを落手。見る時間あるかしら。
 寝る前にちょっとBII見よ。
 あ、昨日の研公@栄も見なくちゃ。現場へ行けないわりに、見るべきものが貯まっていく。

 おーい、やすす、人生とは目撃すること、っちゃ真実だと思うが、ちょっと整理してくんないと。
 
 
 
 

2013年12月28日 (土)

プッチーニのラ・ボエーム

  イサンゴ・アンサンブル
 東京芸術劇場


 見たのは12月19日。書いてるこれは27日だが備忘のため。


 「南アフリカのタウンシップ(黒人居住地)を舞台に生まれ変わる『ラ・ボエーム』」。

 
 イチバン前の席が空いていたのでイチバン前の席を取っていたんです。一種の貧乏性なんだね、これ。だってどこかのシアターじゃ夢のまた夢なんだもの、最前。


 普通のオペラだと、オーケストラピットがあるので最前席と言っても舞台から離れています。シアターの立ち見最前よりちょっと遠いくらいの距離感。だから最前席でも視界に字幕が入る。
 したらオケピがないんでやんの。
 オケの代わりに、舞台左右にはずらっと並んだマリンバとスティールドラム。


 おかげさまで、シアターの最前と同様の距離で役者さんたちとコンニチハ。
 すっげえ迫力。
 ただその代わり字幕が見えない。首を捻らなきゃ見えない。
 なあに、こちとら「ラ・ボエーム」は何回も見てんだ、はなの "Queto Mar Rosso" からフィナーレの ”Coraggio…MImi!" まで字幕なんざ見なくても何言ってるかはだいたいわかる。
 と思ってたのだが、始まってみたら英語で、明らかにオリジナルとは違うことを言ってる。
 おかげさまで首を捻りつつ堪能いたしました。
 

 オリジナルでは屋根裏部屋なのだが、舞台のしつらえは路地裏。それもスラムの。かつての黒人居住地とはかくや。
 開演直前に三々五々集まってきた役者が、雑談している。これも演出か、とは思うのだがどうにもリラックスした様子。
 客電が落ちると、おのおの持ち場につき、マリンバ、スティールドラムの演奏が始まる。
 コーラス。おおよく聞くと「ラ・ボエーム」のイントロではありませんか。
 

 約2時間。
 オリジナルのシナリオをはしょって、ずいぶん短くしてはいるものの、それはやはり「ラ・ボエーム」だった。
 ミミの本名がルチアじゃなくてルシンダだったりするのだが、でもみんなで飲みに行くのはやっぱりモミュスだったり、春になるまで一緒にいようって歌うのが南半球では8月だったりするわけだが、やっぱり「ラ・ボエーム」は「ラ・ボエーム」だった。


 終幕、ロドルフォ(じゃねえや、ルンゲロ)に抱きしめられながらミミは息を引き取る。
 死因は結核。これもオリジナルと同じ。決して昔の病ではない。


 オリジナルのロドルフォは舞台上のボヘミアンたちの中で一番最後に(観客よりも後に)ミミの死に気づくのだが、ルンゲロは、最初に気づく。だってずっと抱きしめているんだもの。
 でも友人には涙をこらえながら「ミミは眠った」と告げる。
 友人たちによって、ミミの遺体には粗末なシートが掛けられる。


 パリの若者たちには、苦しい貧乏時代を生き抜けば栄光を掴む希望があった。若き日に亡くなった恋人も、いつの日にか悲しくも美しい思い出に昇華することもできたろう。
 でもケープタウンの若者たちにとって、そんな希望はカケラもなかった。
 あったのは明日も明後日も同じ日が続くだろうという絶望と諦念。


 振り返ればかくも隔たった世界に僕はいる。流す涙の温度は同じではあるのだが。
 なるほど、どこにだって天使はいるというわけだ。

2013年12月 6日 (金)

仮面舞踏会&トスカ

 また寄り道です。


 仮面舞踏会&トスカ@東京文化会館 by トリノ王立歌劇場


 12月4日5日2日連チャンでオペラ。どちらも東京文化会館。
 ちょっとお腹いっぱい。
 トリノ王立歌劇場は3年ぶり。前回は2010年7月、「ラ・ボエーム」で、ムゼッタをモリマキが演ってましたっけ。


 12月4日「仮面舞踏会」。
 舞台はイギリス植民地時代のボストン。イギリスの植民地総督が部下で親友の奥さんに懸想して、愛だ神だ血だ復讐だなんだかんだ。ヴェルディ先生おなじみ、死にそうな人の大声のアリアがあって、「あああ死んじゃった-」で終わるヤツ。
 お前らもちょっとマジメに政治とかやれよとか思うんだけど、イタリアオペラって、結局色恋沙汰の次元でモノゴトが進むのね。
 でも案外政治ってそういうもんかも。
 政治といったら、最近ちょっと出番の多い小泉純一郎元総理大臣がおられました。知り合いでもなんでもないけど思わず黙礼。
 舞台装置はちょっと貧弱で、第三幕以外は(超金持ち学校の)学園祭に毛が生えたくらいのモンでした。
 「ラ・ボエーム」はよかったのになあ。
  

 12月5日「トスカ」。
 舞台はナポレオン戦争時代のローマ。ローマの警視総監が政治犯の友だちの彼女に懸想して、愛だ拷問だ戦争だだ一発やらせろって言ったら殺されちゃって、政治犯の友だちは撃ち殺されて、彼女は飛び降り自殺。さすがに飛び降り中に歌うことはなかったが。
 まあオペラなんてぶっちゃけるとこんな話ばっか。
 話は陰鬱なんだが、別段それで暗い気分になることはないのが救い。
 タイトルロールのパトリシア・ラセットは凄かった。二つ名を「世界最高の“歌う女優”」というそうだが、確かに"Vissi d'arte"は名演だった。
  

 そうそう、しょっちゅう見かける「オペラ座の怪紳士」は二晩とも最前列にいました。
 

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 ここんとこ乃木坂の生田絵梨花がピアノ弾き語りで歌う「君の名は希望」をずっと聞いてます。
 「バレッタ」の特典映像で佐久間正英がプロデュースしたやつ。
 以前からいい歌だなとは思ってたんですが、何かが違う感じがしていました。
 でも生田弾き語りはすっと心にしみ込んできます。


 乃木坂で知ってたのは生駒白石(かわいい方の)松村くらい。
 生田のことは知りませんでした。
 生田と佐久間の関係も、彼の病気のことも。
 

 生田、とても素直で心地いい声です。でもとりたててうまい訳ではありません。声量は不安定だし音程を取り切れてないところもちょっとありました。そもそも彼女の音域にには少し低い曲のようです。


 それでも。
 そう、この曲は、こう歌われるべきだったんだ。
 ちょっとだけ泣きました。


 オリジナルの何が違ったのだろう。
 何度も聞き比べ考えました。


 この曲の主人公は、「透明人間」とあだ名されるような少年でした。
 周りの人たちから無視され、彼もまた周りの人たちと関わろうとはしない。
 だって、足下にボールが転がって来て、それに気づいても無視するんですよ。ボールを拾って返す、それだけのことが出来ない。それくらい世界との関わりを絶っている。
 完全に「コミュ障」ですよね。
 少年にどんなことがあったのかはわかりません。
 

 ただ不思議と悲惨な感じはしない。
 少年に深く傷ついた体験があったとか、何かが決定的に欠落しているとか、そういうことではなく、なぜかただ淡々と「セカイ」から自分を隔絶してそこで安らいでいる感じ。


 そこに現れた彼女が全てを変えます。
 大したことはしていません。ただ、少年がボールを拾って投げ返すのをじっと待ってた。
 恐らく微笑みながら。
 たったそれだけ。


 それをきっかけに少年は変わります。
 彼を変えたのは彼女の力ではありません。それは少年がもともと持っていたもの。

  こんなに誰かが恋しくなる/自分がいるなんて
  想像もできなかったこと

 ただ少女は、ちょっとした仕草と微笑みを与えただけ。
 

 ただそれだけのことでした。 
 その瞬間に少年は恋に落ち、「セカイ」に復帰します。
 そこは美しい。
 でも決してそれだけではない。
 悲しみの雨や空しさや切ない思いの溢れている場所です。
 そうか、彼はそれが怖かったんだ。だからちょっとだけ離れていたんだ。


 でも大人になるってことは、そういうことなんだよ。ちょっとだけ似た経験のあるおじさんは、少年の肩をぽんぽんと叩いてあげたくなります。そんな経験の無い大人は、一人もいないんだよ。
  

 恐らく少年の恋は実らないでしょう。遠くから眺めているだけで終わってしまうんでしょう。
 でもそれでもいいんです。その恋は彼が「セカイ」に戻った証なんだから。


 ということで、この曲が語るのは、人生の一時期のごくごくささやかで、はかない物語です。
 気恥ずかしくて決して人前で大きな声で語られるようなものではありません。
 ましてや大人数が堂々と高らかに歌ったりするのを少年が聞いたら、顔真っ赤にしてまた逃げ出しちゃうよね。
 

 だからこの曲は、こう歌われるべきだったんです。
 素直で少し未完成な少女の声で。


 聞く方もそうです。決して大音量で聞いちゃいけません。
 部屋を暗くして、ひとりで。
 自分の中の、かつてそこにいた臆病で未熟で、でも誰かを愛したくて仕方なかった自分に向かってそっと。
 

 セッションが終わり、最後に生田が佐久間に対して「また、いつか」と言います。


 佐久間が、そして誰もがその「いつか」が来ないかもしれないことを知っています。
 でもそんなことは少女にとって大したことではありません。
 なぜなら希望とは明日の空のことだから。
 今日植えるリンゴの木のことだから。
 

 だから佐久間はためらうことなく少年のように「はい」と答えました。
 足元に転がって来たボールを投げ返すように。
 希望に向かって。


--


 2014年1月21日追記

 
 昨夜、佐久間正英氏永眠の知らせが入った。
 生田の「いつか」はとうとうやって来なかった。
 と思ったらそうでもなかった。
 生田が正月番組で弾いた「そばかす」、正英オジサマのプロデュースじゃないですか。
 病床のオジサマは、絵梨花ちゃんのピアノを聴いたかな。
 てっぺんにはならなかったけど、楽しい明るい、聞いてて生きてることが嬉しくなるような演奏だった。
 そうか、生田はこうやって、何度でもオジサマと一緒に音楽を作り続けることが出来るんだな。

   未来はいつだって/新たなときめきと出会いの場

 たとえ身が滅んでも、その魂には何度でも出会うことが出来るんだ。 

2013年10月23日 (水)

フィガロの結婚

 フィガロの結婚@新国立劇場


 フィガロは二度目。
 初見は2010年11月、このブログを書き始める数ヶ月前でした。この1年前の2009年10月がオペラ初体験。


 そもそもオペラにはまったのは、ショッピングモールのワゴンセールで安売りしていたマリア・カラスのCDを買ったのがきっかけでした。車のCDプレーヤーに入れて、最初は聞くとはなしに聞いてました。なんだろ、決して美声ではないんだけど、心をぐっと鷲づかみにされた感じ。


 それからCD聞きまくって、DVD買い漁って、どうしても現物が見たくなってチケット取ったのが2009年10月だったわけ。
 お、この経過ってAKBにはまってった時によく似てるね。こっちは現場に出るまでずいぶん時間がかかったが(だってチケット取れないんだもん)。


 で、フィガロを初めて見たときの感想がこれ
 この直前のエントリーがこれ。「マジすか学園」について。うわ、なつかし。
 「(DVDに)入ってた生写真は、誰だかわかんないんですけどね」なんて言い訳Maybeなこと書いてます。この生写真、小嶋柏木北原宮崎高城でした。えーこれが誰かわかんないってどうゆうことよって感じだよね。
 ホントはこの前にすでに「言い訳Maybe」にはまってたんだけどね。

 
 で、「フィガロ」。

 
 時間ぎりぎりに新国立劇場2階最前中央に着席。
 たぶん以前に皇太子殿下がお座りだった席の周辺。


 既に幕は開いていて、大きな白いパネルでできた天井、床、左右の壁、そして奥の壁が見えている。客席からはちょうど内側が白い巨大な箱を覗いているようなしつらえ。その他に舞台装置はない。


 序曲終わり近くになると、奥の壁が開いて、そこから白い段ボール箱が運び込まれてくる。箱には「トウキョウ」「London」「Vienna」「Sevilla」などと書かれてある。 
 このボール箱が、椅子であったり、テーブルであったり、さまざまな道具の役を果たす。ボール箱の他にはタンスが一棹出てきて、これもまたいろんな役を果たす。誠にシンプルなつくり。


 ストーリーは、全てこの「箱」の中で繰り広げられる。
 フィガロの機知も、エロ伯爵のバレ話も、「男の娘」ケルビーノの萌えアリアも。


 2度目ということもあって、あらかた筋書きは頭に入っていたのだけれど、それでも「あれ、今なんでもめてるんだっけ」と頭をひねることが何度かあった。 
 そもそも「フィガロ」って「セビリアの理髪師」の続編なわけで、初演当時は「みなさまおなじみの」お話だから細かい説明なんか不要だった。


 だからたとえばフィガロがホントは実の母であるところのマルチェッリーナに結婚を迫られている理由とか、お客は「知ってる」ことが前提だったのでしょう。ちょうど「お軽勘平」で、何で勘平が腹を切りたがってるか、説明が無くてもご見物衆は先刻ご承知なのと同じように。


 だからその辺準備が足りないとつらいんだね。ぽかーんとしちゃう。「お軽勘平」が古きゃ、エヴァを「Q」から見始める、みたいなモン。何が「13番めの使徒」よいったい。


 ハッピーエンドの「フィガロ」にも続きのお話がある。
 たとえば可愛い可愛いケルビーノはホントに奥様とできちゃって、その後戦争に取られて死んじゃうんだって。まさに「もう飛ぶまいぞ」。


 人生キビシイねえ。


 そんな後日譚を知ってか知らずか、舞台の上の皆様は明るいことこの上なし。
 心躍る美しい音楽と、呆れて笑うしかない馬鹿馬鹿しいお話し。
 そんな時僕はいつも思い出すよ。

   くるくるばーで/みんなで騒ぎましょう

 
 愛を失くしてしまっても大丈夫。お代わり自由だからさ。
 

 


 

2013年10月17日 (木)

魔笛2

 魔笛
 プラハ国立歌劇場@東京文化会館

 
 「魔笛」、前回は新国立劇場でしたね。1年半ぶりのオペラ、皇太子殿下がご臨席されたんでした。


 その後オペラブームが再燃して、半年で8本、この「魔笛」で9本目です。
 一方劇場公演はHKTの研究生「PARTY」と、こないだのTeam K公演の2本。
 いきおいこのブログもオペラがらみの記事が増えました。
 うーむ。これではまるで"Commentarii de operibus"だぞ。


 で「魔笛」について。


 台風が近づくなか渋滞をかいくぐってなんとか開演少し前に会場着。
 第1幕は正直少し眠くなりました。いびきをかかない程度にうつらうつら。
 前は寝ちゃやばい、って思ってたけど、最近は眠くなるのは自分のせいではない、演者がワルいって開き直るようになりました。
 だってなんか序盤声あんまし出てないし、セットはちょっと学芸会っぽいし、そもそも「魔笛」って中2臭い話なんでも一つ感情移入できないんだよねえ。

 
 でも考えてみたら18世紀の話だもんね。
 そのころの人にしてみれば、意味ありげな数字や人や物や事件が斬新でエキサイティングだったのかも。当時最先端の新思想ってね。でも今見ると、そういう部分はインチキ新興宗教か自己啓発セミナーみたいな臭いがしちゃうのね。「3という数に隠された意味」とか、今の人には全然興味湧かないでしょ。


 じゃあこのお話がout of dateかというと、そうでもない。そこがモーツァルトの凄みです。
 

 というわけで幕間にコーヒーを飲んで気合いを入れて後半。
 第1幕と違ってお目めぱっちり。 
 夜の女王とパミーナが素晴らしい。

 
 「魔笛」と言えば、「夜の女王のアリア」がハイライトのひとつで、一度聴いたら忘れられないモーツァルトの傑作。この夜も、「夜の女王を歌うために生まれてきた」とまで言われるハンガリーの至宝、エリカ・ミクローシャのコロラトゥーラに圧倒されました。すごい人だってのは今ぐぐって知ったんだけどね。
 でもこのアリア、美しいんだけど内容は陰惨なんですね。
 娘のパミーナが心酔しているザラストロを剣で暗殺するように迫る歌。

  ザラストロというヤツに、/死の苦しみを味わわせねば
  あんた、あたしの娘じゃないわ。/永遠(とわ)に勘当、おさらばよ。
  母娘(おやこ)の絆もご破算ね、/あやつの息の根、止めなくば!

オペラ対訳プロジェクト「魔笛

 なにこの心理的虐待の鬼母。
 「言うことを聞かないと見捨てる」って、完全パーソナリティ障害系じゃんねえ。


 それに対して、ザラストロは、傷ついたパミーナに対しやさしく唄いかける。

  この神聖な広間には、/復讐などは縁がない・・・
  よしや、その人つまずけば、/義務へとみちびく、その愛は。
  友情の手を見出して、さても楽しく/ほがらかに、より良き国に至るのだ。

 ああ、なんてやさしく寛容で高邁で開明的なザラストロ。理想的な人格と言っていいでしょう。


 このザラストロのアリアも美しかったのだけれど、じゃあ夜の女王のアリアとどっちがいいかというと、もう問うまでもなく夜の女王の圧勝。

 
 完成された理想的な神のような人よりも、感情に翻弄されれる人間くさいどうしようもない鬼母の方が人の心を惹きつけてやまない。


 「ねえあなたもそうでしょ」とニヤニヤしながらモーツァルトが言ってるみたい。


 あとパパゲーノね。
 「魔笛」って夜の女王とならんでパパゲーノも主役ですよね。
 どっちも我欲の虜なんだけど、夜の女王が陰だとしたらパパゲーノは陽。


 この公演のパパゲーノもよかった。


 愛を失ったと誤解したパミーナの嘆きのアリア、せつせつと哀しみを歌い上げているのに、後ろのパパゲーノは海苔巻きを(ホントに!)食べてやがんの。挙げ句「スシはうまいや」だって。
 要所要所でこういう日本がらみのくすぐりを入れて来てました(「オ・モ・テ・ナ・シ」とかね)。


 終盤、夜の女王が敗れて、タミーノとパミーナが手に手を取って火と水の試練を克服するわけです。象徴的な死をくぐり抜け、二人は「新しい人」に再生する。たぶんここが「魔笛」のメインテーマなんでしょう。
 でもこの辺、何かもう完全にやっつけな感じ。もちろんメロディは美しいですよ。でも心に残らない。
 それよか次のシーンでパパゲーノとパパゲーナが結ばれるところの方がよっぽどいきいきとして楽しい。曲も一度聞いたら忘れられない、つい鼻歌で歌ってしまっちゃう。
 

 とにかく女が欲しくてしょうがない、欲望に忠実な、ダメダメなパパゲーノがお似合いの伴侶を得て、こどもをいっぱい作る。高邁なテーマよかよっぽどそっちが大事でしょ、ってモーツァルトさん。


 「魔笛」、表向きのテーマがどんなに古くさくなっても魅力を失わないのは、イヤミな天才モーツァルトの深い人間洞察のタマモノなんでしょう。


 あとザラストロ教団の神はオシリスとイシスのはずなのに、大団円で出てきた神はどうみてもアヌビスでした。

2013年10月 3日 (木)

リゴレット2

リゴレット
新国立劇場


 とうとう9月はAKBがらみのことを何一つ書かなかった。
 それどころか、ブログに手もつけられない日々が続いちゃった。
 コメントのお返事もすっかり遅くなって、申し訳ありませんでした。
 

 今日も書くのはぺらぺらぺらお。
 先月も見た「リゴレット」。
 先月は名にし負うミラノスカラ座の引っ越し公演、その絢爛豪華さに圧倒されました。箱も巨大なNHKホールだったし。
 で、今日の「リゴレット」は、新国立劇場のこじんまりとした舞台でした。


 2階最前列で見たのははじめて。足元に余裕があって、なかなか快適でした。並びには正装の外人さんがたくさん。聞けば新国立劇場のオペラ初日には、各国大使館に招待状が廻る由。どこぞかの国々の大使閣下夫妻だったのでしょう。


 幕が開くと、何と設定は現代。
 中央に三階建てのホテル、それもゆっくりと回転してやんの。
 登場人物はダークスーツとパーティードレス。
 タイトルロールのリゴレットも白化粧こそしているものの、コスチュームはスーツ。
 マントヴァ公爵も白ずくめのスーツで登場。


 原作は公爵の宮廷なのだが、さながらギャングのアジトのようでした。


 斬新でエッジの効いた演出ってことなんだろう。


 でもなあ、何というか、原作の持つ「人間の情けなさゆえの悲劇」って持ち味が失われていたように思えた。
 

 原作だとマントヴァ公爵は薄っぺらい二枚目でしょ。
 悪気はそんなにない、けど女好きでどうしょもなくて、でもその容姿は神様に不公平を訴えずにいられないように美しい。
 女と遊んで捨てるのだけれど、それは悪意があるわけじゃなくて、いわば貴人の無責任さ。


 いっぽうタイトルロールのリゴレットは、醜い道化師。人を笑わせるだけに生きて、人に踏みつけにされることで口に糊している。


 そんな惨めなリゴレットにとっての唯一無二の宝が娘のジルダ。こんな醜い自分を愛してくれた今は亡き愛妻の忘れ形見。


 そのジルダを冗談で誘拐した宮廷の面々。彼らはジルダをリゴレットの若い愛人と誤解していた。だからジルダを誘拐し、マントヴァ公に陵辱させたのも、単にリゴレットをコキュに貶めて笑い者にしようと思ったから。
 だから宮廷の面々は、ジルダがリゴレットの愛人じゃなくて娘だと判って、一斉に「引いて」しまった。「ちょっと、娘ってマジぃ? それじゃちっとも笑えないじゃん」って。
 そんなジルダにちょっと本気になってたマントヴァ公。でもイッパツやったらすっきりしちゃった。
 一方彼の美しさゆえにマジで愛してしまったジルダ。
 第一幕では娘の純潔を奪われた父親を笑い者にしていたクセに、復讐の鬼と化すリゴレット。


 結局「人を呪わば穴二つ」。


 薄っぺらなワルモノは何の罰も受けません。


 エンディングは悲劇なんだけど、そこに至る過程はあんまり悲劇的じゃなくてどちらかというとコメディタッチなんですよね、原作は。そこにヴェルディ大センセイ深みがあるってもんじゃないですか。


 でもねえこの演出だとちょっと笑えないんだよねえ。


 たとえば第三幕。
 一幕のパーティーで華やかに着飾っていたレディたちが、一変惨めな姿で現れるんです。
 特にその美貌ゆえに第一幕で公爵にもてはやされ口説かれていたチェブラーノ伯爵夫人が、第三幕では青あざや血がにじん下着姿で登場する。マントヴァ公に暴力的に弄ばれってわけだね。
 そのチェブラーノ伯爵夫人をかき抱きながら、公はジルダへの愛を歌う。もう「済んじゃった」女に全く未練は無くて、そこにいないジルダに対する思慕の念しかない、というのを表現したいんだろう。でもそこには陽性な「女好き」は無く、冷たく暗い酷薄さしかない。


 さらにチェブラーノ伯爵夫人は、公の「手下」3人に無理矢理高いストールに座らされ、ぐるぐる回される。これって明らかに輪姦のメタファーだよね。そこまでする必要があるの? そんなにマントヴァ公って悪なの?


 そして何よりもいけないのは、これは演出とは直接関係ないんだけど、マントヴァ公役のウーキュン・キム(from Korea)。
 美声ですよ。声量も充分ですよ。芝居も(悪そうな)うまいですよ。
 でもねえ、マントヴァ公としてはねえ。
 

 マントヴァ公はあきれるほど美しくなきゃいけない。
 ジルダが一目惚れをして自ら身代わりになることを決意するほどの美しさ。
 刺客スパラフチーレの妹の心を一瞬で奪いさり、彼を殺そうとする兄を押しとどめないではいられなかったほどの美しさ。
 本人はなーんも努力してないんだけどねえ。
 

 そのマントヴァ公、今日の舞台では「痩せた朝青龍」でした。
 ジルダ「教会で見かけたあの美しいお方」にして、
 スパラフチーレ妹「兄さん、あんな美しい男の人を殺すのはやめようよ」たるべきマントヴァ公が、痩せた朝青龍。


 やんぬるかな。


 でも隣のお嬢さんはジルダが息を引き取る場面で泣いてました。
 僕もちょっとうるっと来た。


 まあ痩せた朝青龍のために愛娘が死んだら、確かに泣いちゃうよなあ、僕でも。

--


 ん? これじゃ Commentarii de AKBにならない?
 んだね。


 じゃちょっとだけ。
 

 「タイムマシンなんていらない」。
 いらないのはあんただけだよ!
 

 「ヒリヒリの花」。
 タイトルは期待したんだけどなあ。
 どうしてこんなにわかりやすく説明しなきゃいけないんだろう。てか説教したいんだろう。
 どうして聞き手の勝手にさせてくれないんだろう。
 「フェルメール」とかよかったんだけどなあ、ノイエ。
 あんときゃ片っ端からフェルメールの絵を漁って探したんだ(結局他の人に教えて貰ったんだけどさ)。で、あ、これかって絵に出会えて感じ入ったんだけどなあ。


 「Fortune cookie in Love」。
 「スカッ」てのが「好き」って意味なのは判った。


 「カモネギックス」。
 佳曲だがA面でいいのかよすす。
 このノリで「泣きながら微笑んで」いいのか優子は。

2013年9月13日 (金)

リゴレット

 リゴレット@NHKホール by スカラ座


 これぞオペラ。

 
 前回の「フォルスタッフ」が、ヴェルディ先生がオペラを極めたあまりにオペラを突き抜けてしまったのに比べ、この「リゴレット」のオペラらしさときたら!


 ほんのちょっとしたレチタティーヴォにも惜しみなくあてがわれたメロディの芳醇さ。
 素面なら誰でも突っ込みたくなるような筋立ての都合良さ。
 華美な装飾。絢爛たる衣装。
 死ななくてもいいのに意味もなく死ぬヒロイン。
 死にそうなのに響き渡るアリア。


 それにしてもジルダの"Caro nome"の美しかったこと。
 第1幕では拍手のタイミングを捉えきれなかった聴衆が、ホント、思わず我慢出来ず歓声を上げずにはいられなかった。
 いやあ、参った。


 10月にも新国立劇場の「リゴレット」を予約したけど、これほどの印象は残らないだろうなあ。


 それにしても。
 スカラ座のチケットならいともたやすく取れるというのに、かのシアターのチケットの得難いことよ。

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